三宅に和風庭園完成(奈良新聞より 2011-10-14)

完成した「屯倉ケ原 和風庭園“あざさ”」三宅町伴堂

2011-10-14-奈良新聞
奈良新聞(2011-10-14)より
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三宅町の屯倉歴史遺産を守る会・あざさの花普及部会(池本房一代表)メンバーと町民有志ら7人が、同町伴堂の町中央公民館前に「屯倉ケ原 和風庭園“あざさ”」を造った。
万葉集に歌われた町花アザサを知ってもらおうと、同部会が7月から会議を開いて設計プランを作製。9月7日から1カ月かけて手作りで完成させた。

完成した「屯倉ケ原 和風庭園“あざさ”」三宅町伴堂
完成した「屯倉ケ原 和風庭園“あざさ”」=三宅町伴堂

三宅町の派出所の前のこの庭園はあります。ちょっとしたものですがイイ感じです。

※ここで提案!
この庭には、正面に実は小さな門があって、その門の奥には三宅町のマスコットである「みやっぴぃ」の小さな石像がいます。
「三宅に住む子供が3歳(くらいか?幼稚園の年齢がいいかも)になったら、子どもしか通れないこの門をくぐって、みやっぴぃと記念写真をとる」
「三宅に育った子供が元気で、家族の愛と男女の縁に恵まれて健康に育つ願いを込めた行事」
成人式ならぬ 子供の式典をぜひ町をあげてやって欲しい! と提案したところ一蹴されました・・・・
みなさんどう思います。あざさの花をモチーフにした赤ちゃんのみやっぴぃ。
子供は社会にとっても宝です。町をあげて子供を育む。小さな町だからこそ出来ると思う。
子供が大きくなった時この記念写真を見て思う「なんじゃこの写真」で、エピソードを語れば郷土愛も育つし・・・
あざさの花は、万葉集に詠われているように、男女の恋愛の象徴であり、家族の絆の象徴です・・・・いい企画だと思うのですが・・・・

日本書紀登場の幻の人工池「磐余池」は鎌倉時代に埋め立て?(net産経新聞より)2012-06-29

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日本書紀登場の幻の人工池「磐余池」は鎌倉時代に埋め立て? 奈良の遺跡で池底跡見つかる 2012.6.29 20:41

 日本書紀などに登場しながら所在地が分からなかった人工池「磐余池(いわれいけ)」の推定地、奈良県橿原市東池尻町の遺跡から池底跡が見つかり、市教委が29日発表した。池が鎌倉時代の13世紀初めごろ埋め立てられたことも判明。市教委は「国内最古の人工池の変遷を知る貴重な成果」としている。
 昨年の調査で堤跡の一部と大型建物跡が出土。日本書紀に聖徳太子の父、用明天皇(在位585~587年)が磐余池のほとりで宮を営んだとの記述があり、建物跡はその関連施設の可能性が指摘されている。
 今回、池があったとされる堤の南側で池底跡とみられる堆積層を約80メートルに渡って確認。土の成分や出土した土器片などから、13世紀初めには埋められ水田になっていたことが判明した。
 磐余池は、万葉集に収められた大津皇子(おおつのみこ=663~686年)の辞世の歌や、日本書紀に登場。清少納言も枕草子で代表的な池として紹介している。
磐余池をめぐっては、同県桜井市にあったとする研究者もおり、論争の決着はついていない。木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「天香具山(あまのかぐやま)に近い特別な場所で当初は用水と観賞を兼ねた池として整備され、宮が移された後は農地に転用されたのではないか」と話している。
 現地は埋め戻されており、説明会はない。
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 磐余池 日本書紀によると、5世紀前半に履中(りちゅう)天皇が造り、6世紀後半に用明天皇が近くで宮を営んだ。万葉集には謀反の罪で処刑された大津皇子の辞世の歌「ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨(かも)を 今日のみ見てや 雲(くも)隠(がく)りなむ」が残されている。